オタクに挫折した人間の話。

突然の告白だが、私は斉藤さんのことを好きになってから、諦めてしまったことがひとつだけある。それは、

 

 

周りの「クソデカ感情」に追いつくこと。

 

私は感受性が低いのか、想像力がないのか、愛が枯渇しているのか、理由はわからないのだが、とにかく「クソデカ感情」というものが一寸たりともわからないのだ。

 

そして、コンテンツに対して大きな愛を持って日々を彩るオタクの皆さんを目の当たりにする今日、それが苦しくて苦しくて仕方がないのだ。

 

もしかしたら、この苦しさをわかってくれる誰かがこの広いTwitterの海のどこかにいるのではないか、そんな一縷の希望を胸に、私は筆を取ることにした。(正確に言えば、指でテンキーをフリックすることにした。なのだが。笑)

 

 

 

 

前回のブログで記した通り、私は斉藤壮馬さんの沼に見事にハマった。沼からは抜け出せないし抜け出すつもりもない。

 

だが、何かがおかしいのだ。

私は斉藤さんのことが、斉藤さんの声が、演技が、携わった作品が、大好きなはずなのに、周りの皆と同じ感情にはなれないのだ。もっと正確に言うと、わからないのだ。

 

このオタク界隈には「クソデカ感情」というものがあるらしい。

 

斉藤さんが新曲を出した時、

斉藤さんの誕生日、

斉藤さんのアーティストデビュー日、

アイナナなど各コンテンツについて、

キャラクターについて、

 

このようなイベントがある度に、私の周りの皆さんは、それはそれは楽しそうに、大きな愛を持って推しやコンテンツの素晴らしさを語り合っている。

そして、そのような状態にあるタイムラインを、私はいつも羨望と少しの劣等感を含んだ眼差しで、流し見するしか無かった。

 

 

そもそも、なぜ、こんなことになってしまったのだろう。

 

私は斉藤さんが好きだ。それは間違いなく自信を持って言えることだ。

では、この感情の違いはなんだろう。

 

例えばアイナナ。

 

私は今現在アイナナの3部の途中までを読んで手を止めている。それはストーリーが面白く無いとかそういうことではなく、自分の感情の希薄さが嫌になったからだ。

 

 

勿論ストーリーは面白いし構成もしっかりしている。読み手を楽しませる工夫も随所に施されていて飽きない。キャラ設定も個々が立っているし、どのキャラに対しても「乗り越えるべき壁」を作り出し、彼らが協力して「ひとつひとつ乗り越える」強さを魅せる、そのストーリーの起伏のおかげで、受け手の応援と感情移入にも力が入る。

 

ゲーム以外へのコンテンツの広がりも大きくて身がある。

センセーショナルな広告を打つクリエイティブとそのタイミング。

 

色んな要素が重なりさらにファンを増やしていく波の大きさ。

 

 

素晴らしい。どれを取っても確かに素晴らしい。

これが、「人の心を動かす」という事なのだろうな。

 

 

 

以上が、私のアイナナを途中まで履修した感想だ。

 

何かがおかしいことに、私だけではなくこれを読んでくださってる皆さんも気付いていただけているかもしれない。

 

 

そう、私はキャラクターへの感情移入が出来ていないのだ。コンテンツをコンテンツとして、もっと言うとビジネスとしてしか見ることができなくなってしまっているのだ。そしてそれが私の苦しみの原因なのだ。

 

 

皆が楽しそうに、時には笑い、時には泣き、手と手を取ってアイナナという大きな世界を前に生きているのに、私だけが、他の星から指をくわえながらそれを眺めている。

羨ましい。妬ましい。なぜ私は感情移入が出来ないんだろう。頭がおかしいのかもしれない。

 

 

 

例えば斉藤さんの新曲発表後。

 

タイムラインを眺めるとそこには、感動で震える指で、息も絶え絶えに叫ばれる「好き」の言葉。ワンテンポ遅れて彼の世界観や人生観を含めた考察と称賛の数々。

 

そして、彼の人生に想いを馳せ、ただただ幸せそうに語り合う皆のツイート。

 

 

ここで言い訳させて欲しいのだが、私も新曲を聴く時や、誕生日には、人並みに感動しているはずだし、世界観に想いを馳せ、脳内の劇場で自分なりに彼の世界観を再現放映したり、私なりに浸っているはずである。

 

 

しかし、

 

「ただただ幸せそうに語り合う皆のツイート。」

 

ここが問題なのだ。

 

 

私は、「すごいな、好きだな」という思いと、「幸せ」という感情が結びつかないのだ。

 

良いモノを聴かせて頂けたな。とか、有難いな。という感想はおそらくそれまでの事で。

 

その先の「丸裸になり、せーのでジャンプして一緒に浸かる幸せの温泉」みたいなものの水源が、枯渇しているのだ。

 

皆が楽しそうに感情を丸裸にしてその幸せの温泉に浸かっている間、その幸せに包まれている間、私はまた指をくわえて脱衣所で服を着たまま座り込んでいるしか無いのだ。

 

 

 

私の何がおかしいのだろう。何が間違っているというのだろう。なぜ皆と同じになれないのだろう。

最近はそんな葛藤もめんどくさくなり、薄い感情をさらに薄くして、冗談めかした軽いツイートで誤魔化すばかりである。

 

いつか私も、皆と手を取り合い、「幸せだな」と笑い合える日が来るのだろうか。

それともこの先ずっと、周りとの違いに苦しみ続けるのだろうか。

その未来、私はちゃんと推しが好きだと、胸を張って言えているのだろうか。

 

 

辛い。

 

 

この私のブログが、広いTwitter海を渡り、もし、同じ気持ちの人の心を少しでも軽くできるのなら。そんな願いを込めて。